本文へスキップ

古代史探索exploring

平城遷都(710-715)の真相

平城遷都(710-715)の真相

 大宝元年(701)8月26日、高安城が廃され、その舍屋と雜儲物が大倭・河内二国に移されました。同時に、唐また新羅との戦いを名目に配備された東国の将兵も移動、大倭と河内を軍事的に制圧。大倭には、後に外京と呼ばれる地域に「平城」が造営され、稗田や竹之内など交通の要所には前線基地がつくられました。この作戦を主導したのは二人の東国人、後の左大臣・石上麻呂と文武両道に優れた将・下野古麻呂です。
 慶雲元年(703)麻呂の盟友・粟田眞人が周に渡り、武則天に「日本建国」の構想を報告。麻呂は律令制度に則り全国各地から優秀な人材を集めて政権を樹立(708)、平城京の建設を決定しました。和銅三年(710)平城京の遷都が始まり、5年後の霊亀元年(715)藤原京から移設された大極殿で元正天皇が即位、律令国家「日本(ヤマト)」が建国されました。注目すべきは、当時の京域に一つの寺もなかったこと。古代史ビューア【麻呂】を使い、『続日本紀』で「寺」を検索してみてください。石上麻呂政権下、政教分離策がとられていたことがわかります。
 右図は、私が作成した遷都時の平城京復元図。古代中国や日本では、方位の基準は“南”で、漢字「左」には”東”の語義がありました。平城京の復元図を見てください。明らかに左京中心に造営されています。その主要地には「佐紀(東人が治める)」「佐保(東人が守る)」の名がつけられていました。
 平城京のモデルは、通説の長安ではなく、武即天の神都・洛陽でした。石上麻呂は、武周(690-705)の治世から多くを学び、大きな影響を受けていたようです。ただし女帝の性や伽藍仏教から生ずる弊害を防ぐため、斎宮制度を再構築して未婚の女帝を擁立、京域での寺院建築を許しませんでした。
 
 


平城遷都の責任者は、東国人の引田宿奈麻呂

平城遷都の責任者は、東国人の引田宿奈麻呂

 引田宿奈麻呂は、有名な阿倍比羅夫の子です。慶雲元年(704)阿倍に改姓、和銅元年(708)平城京建設の責任者になり、一族を率いて東人をまとめ遷都を実現しました。
 和銅五年(712)十一月乙酉(11月20日)阿倍朝臣宿奈麻呂は、同族6名の改姓を申請、その文中に「引田」「久努」「長田」が彼らの居住地だったことが明記されています。 引田は当時の地名であり、引田一族は武蔵(東京都あきる野市付近)など関東出身の豪族でした。当時の武蔵守も、引田祖父という文武天皇と同じ名を持つ人物です。
 古代ビューア【麻呂】では、範囲指定した語句をGoogleでネット検索できます。起動して「引田 地名」で検索、weblio辞書の検索結果を見てください。現在も関東地方には、あきる野市の他に栃木県鹿沼市、群馬県富士見村、千葉県の市原市・いすみ市などに、いくつもの引田地名が残っています。「引田」の読みは「ヒキダ」であり、通説の「ヒケダ」は誤りと考えられます。
 初期の平城京を造営した人々は、東国人や防人、行基等に率いられた私度僧や民衆などが中心でした。和銅六年(713)10月には、防人の專使が廃止されます。防人たちは見張り役もなく、自主的に任地に赴くように。以来、天平神護元年(766)の条にあるごとく、筑紫に留まる防人も多かった。おそらく大宰府には独自の令があって、従来の防人像とは異なり、防人たちは生活面で優遇されていたと推定されます。霊亀二年(716)五月には、初めて平城京に元興寺の移建が許されました。石上麻呂は道照や弟子の行基等と親しく、彼らの公益的な事業を支援していたと思われます。しかし養老元年(717)3月麻呂が薨去すると、反動勢力が造反。元正天皇を取り込み、霊亀3年(717)4月23日「小僧行基」と名指しで批判、その布教活動を禁圧します。元興寺の跡地は、その後、大安寺に乗っ取られたようです。


左大臣 石上麻呂と律令国家「日本(ヤマト)」

左大臣 石上麻呂と律令国家「日本(ヤマト)」

 古代史ビューア【麻呂】の名は、平城京遷都時の左大臣石上麻呂に由来します。大宝律令の制定、和同開珎発行、平城遷都、古事記や日本書紀の編纂など、8世紀初頭の重要な事績は石上麻呂の為政下で成立しています。麻呂は、まさに日本(ヤマト)建国の父と言える人物なのです。
 その歴史的事実は、石上麻呂を検索、麻呂の事績を追って客観的に記述を分析すれば明らかです。ただし『日本書紀』と『続日本紀』中、石上麻呂は「物部連麻呂」「石上朝臣麻呂」「石上朝臣麿」「物部麿朝臣」「石上朝臣麿」「左大臣」などと記され、単純なテキスト検索では時系列でたどることができません。
 【麻呂】の検索システムは、正規表現に対応。検索語群を正規表現で記すことで複合的な検索ができます。また【麻呂】にはカスタム検索機能があり、研究目的毎に検索項目をつくり、必要に応じて正規表現を用いた検索語を登録できます。「石上麻呂の事績」に関しては、カスタム語句群がプリセットされており、石上麻呂や藤原不比等などの重要人物を簡単に検索できます。ご自分で【麻呂】を使ってみてください。8世紀初頭の人物が、石上麻呂と共に活躍していることが分かります。例えば、有名な長屋王や『古事記』編纂者・太安麻呂は、慶雲元年(704)1月7日、石上麻呂が右大臣になった時に初登場しています。和銅元年(708)左大臣となった時には、上位15国の国司が東国順に記されています。明らかな東国重視。平城京は、麻呂を中心として東国人たちがつくった都だったからでしょう。


相摸調邸は石上麻呂の経済的基盤

相模調停は石上麻呂の経済的基盤

 平城京東市の西側に、相摸調邸と呼ばれる交易施設がありました。石上政権下、相摸国は麻呂の直轄地だったと思われ、和銅三年(710)7月朔7日には左大臣の舍人・牟佐村主相摸が瓜を献上しています。この相模調邸は天平勝宝八年(756)東大寺に売却されますが、その担当者・漆部伊波は神護景雲二年(768)「相摸宿祢」に改姓、相摸国の国造になっています。 相摸調邸は麻呂の権勢を支える経済的基盤でした。
 その歴史的事実は、『続日本紀』を「相摸」で検索。相摸の事績を追って、相摸関係の記述を分析すれば明らかです。
ご自分で【麻呂】を使ってみてください。相摸守には、藤原朝臣宿奈麻呂(752)、石上朝臣宅嗣(757)、麻呂の孫二人が続いて任命されています。神奈川県藤沢市の鵠沼地域には、現在も「石上」「藤原」の小字が残されています。


平城京三条二坊の館は、石上麻呂邸(長屋王邸発見は誤認)

平城京三条二坊の館は、石上麻呂邸

 昭和60年代初頭に発掘され、その後「長屋王邸」と認定された三条二坊の館跡。発掘された木簡から、邸内には二つ以上の家政機関が存在し、その主家は「少書吏」「大書吏」木簡により二位以上の人物で、平城遷都時、京外に居住していたことがわかっています。
 和銅三年(710)三月辛酉(3月10日)平城京への遷都が始まり、左大臣・石上麻呂は留守になります。留守とは、古代中国において皇帝不在の都で皇帝の政務を代行する役割。元明天皇は、遷都開始と共に平城京に移っていたのでしょう。三条二坊館跡の主家として該当する人物は、藤原京の留守として、天皇の政務を代行していた石上麻呂以外にはいません。この事実は、『続日本紀』を精読し、正しく分析すれば明らかです。
 カスタム検索で「石上麻呂の事績」を用いて検索。是非、ご自分の眼で確認してください。長屋王は、後継者の一人として麻呂が庇護した皇子だったことがわかります。


information

電脳企画 BE-ALL 代表 関根 聡

〒940-2032
新潟県長岡市石動町332-12
TEL.090-1378-6100
Mail:kojiki@ozzio.jp