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古代史探索exploring

平城遷都(710-715)の真相

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 藤原京から大極殿が移設されたのは和銅7年(715)頃。当時の京域には、ひとつの寺もありませんでした。
 続日本紀を「寺」で検索してみてください。石上麻呂政権下、政教分離策がとられていたことがわかります。
 右図は、私が作成した遷都時の平城京図。古代中国や日本では、方位の基準は“南”でした。故に漢字「左」には”東”の語義があり、平城京は左京中心に造営され、主要地には「佐紀」「佐保」の名がつけられていました。
 平城京のモデルは、通説のような長安ではなく、武即天が住んだ洛陽でした。古代日本は、武周(690-705)の治世から多くを学び、大きな影響を受けていたようです。
 
 


平城遷都の責任者は、東国人の引田宿奈麻呂

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 引田宿奈麻呂は、有名な阿倍比羅夫の子です。慶雲元年(704)阿倍に改姓、和銅元年(798)平城京建設の責任者になり、一族を率いて遷都を実現しました。
 続日本記和銅五年(712)11月20日条等から、引田は当時の地名であり、引田一族は武蔵(東京あきる野付近)など関東出身の豪族だったことが分かります。武蔵守も、引田祖父という文武天皇と同じ名を持つ人物でした。
 操作パネルからGoogleを起動して、「引田 地名」で検索、weblio辞書の検索結果を見てください。現在も関東地方には、いくつも引田地名が残っています。


左大臣 石上麻呂と律令国家「日本(ヤマト)」

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 古代史ビューア【麻呂】の名は、平城京遷都時の左大臣石上麻呂に由来します。大宝律令の制定、和同開珎発行、平城遷都、古事記や日本書紀の編纂など、8世紀初頭の重要な事績は石上麻呂の為政下で成立しています。 麻呂は、まさに日本(ヤマト)建国の父と言える人物なのです。
 その歴史的事実は、カスタム検索で石上麻呂を検索、麻呂の事績を追って客観的に記述を分析すれば明らかです。ご自分で【麻呂】を使ってみてください。
 和銅元年(708)左大臣となった時、上位に記された国司は東国が占めています。平城京は、麻呂を中心として東国人たちがつくった都だったのです。


平城京三条二坊の館は、石上麻呂邸(長屋王邸発見は誤認)

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 昭和60年代初頭に発掘され、その後「長屋王邸」と認定された三条二坊の館跡。発掘された木簡から、邸内には二つ以上の家政機関が存在し、その主家は「少書吏」「大書吏」木簡により二位以上の人物で、平城遷都時、京外に居住していたことがわかっています。
 該当する人物は、藤原京の留守として、天皇の政務を代行していた石上麻呂以外にはいません。この事実は、続日本紀を精読し、正しく分析すれば明らかです。
 カスタム検索で、石上麻呂の事績を検索。是非、ご自分の眼で確認してください。長屋王は、後継者の一人として麻呂が庇護した皇子だったことがわかります。


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