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『国宝真福寺本古事記』(1371-72)の影印とテキストです。
この写本は、現存する30数本の写本中最古のもので、『兼永本古事記』(1522)と共に、すべての写本の祖本になっていると言われます。
『古事記』の原本は現存しないため、 『古事記』の内容を知るには、この『国宝真福寺本古事記』と『兼永本古事記』を研究するしかありません。
しかし現在刊行されている『古事記』は、すべて本居宣長の『新刻古事記』(1802)を底本として屋上架屋の解釈と愚訳の上に成立しています。
『新刻古事記』は、後代の学者によって『訂正古訓古事記』と改名され、内容も過大評価されていますが、意訳・曲訳に満ちた贋作に過ぎません。
上巻冒頭の「天地」さえ、正確に訳されているとは思われないのです。
『古事記』上巻の原文には、冒頭一文中の「高天原」に[訓高下天云阿麻下效此]
と「天」の読み方の注意書き(以下、施中という)が記されています。
しかし冒頭の「天地」 には、何も施注がありません。
すでに8世紀、古漢字「天」には周知の読みがあったと考えられます。
そのため注がつけられず、1300年後の現在では何と読まれたか分からない。
一般的に「あめつち」 と読まれていますが、その読みの解説に説得力のある学説は何ひとつないのです。
「高天原」も同様。
わざわざ『古事記』述作者が、「阿麻」と注を付けているにもかかわらず、「たかまのはら」などと好き勝手に読む学者が多い。
『真福寺本古事記』の成立期、すでに句読点やカタカナ表記が一般化し、元本にもカタカナでフリガナが加筆されていました。
しかし僧賢瑜は、句読点やフリガナを記さず、漢字表記のみの『古事記』を書写し、写本を命じた二代住職の信瑜も校正を行なっています。
二人の僧は、何を目的として『真福寺本古事記』を作ったのでしょうか?
私は、『古事記』原本の復元を試みたと推定しています。
兼永から宣長、そして現代に至る『古事記』学者の系譜と業績は、『古事記』誤読、曲訳の歴史といって過言ではありません。
『真福寺本古事記』に帰れ!
そして原文の古漢字表記、行間に秘められた作者の意図を斟酌せよ。
それが『古事記』研究の原点だと思います。
クリックすると、『国宝真福寺本古事記』上巻の全約80ページが表示されます。
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●『古事記』の意味と書名の由来は?
●『古事記』の「序」とは?
●「上巻」「中巻」「下巻」区分は、漢籍表記への否定的挑戦では?
●序に記された「之繞+一口」字に注目!
●序中の本文解説で、仁徳天皇を「大雀」と呼び捨てるのは、なぜ?
※そもそも、「大雀」は「でっかい小鳥」の意味 …。
●上巻冒頭の「天地」は、何と読む?
●上巻冒頭の一文中「高天原」の読みと意味は?
●「上件五柱神者別天神」の特殊表記は何のため?
●「伊那岐神」 って?
以上のような点を考えて、影印と原文を観てみてください。
冒頭のみです。
●神武の発言「坐何地者平聞看天下之政猶思東行」に注目!
※これは、和文表記の典型です。
坐って何?
地を平らぐと聞く。
看して天下、これを政す。
だから思う。
東へ行こう!
素直に読むと、 『古事記』の会話文は分かりやすい?
冒頭のみです。
●「下巻」の意味は、文字通り「下らぬ巻」か・・・。
●仁徳天皇の表記に注目!
※最初は、「大雀」、次に「大集」、さらに「太雀」 と叙述者は仁徳を揶揄している。
藪の中で、ピーチクパーチク。
仁徳は、宮中に取り巻きを集めて 、偉ぶっている小太りの小心者?
明らかに、『古事記』の記述は野史的ですね。
天皇家のために書かれた本ではない。
凡例
@本ページの影印は、山田孝雄解説『国寶眞福寺本古事記』(立命館大学1943)を複写しました。
Aページ数は、対照の便宜のため、小島憲之解説『国宝真福寺本古事記』(桜楓社1978)に合わせてあります。
B本文テキストは、「ALEXの寓居」からダウンロードさせていただいた『古事記』から、句読点や表示記号等を削除、真福寺本に合わせて改行してあります。
C原則として本文は黒色で表記し、施注は青色の小文字で表記しました。
D真瑜他による校正や書き加え等は、赤色の小文字で表記しました。
E現在該当する漢字のない文字は、■で表示してあります。
F解説した本文や注目すべき漢字等は、赤色またピンク等の色を付け、目立つようにしてある場合があります。
※気がついたテキストの差異等は直しましたが、まだ厳密な校正はしていません。
お気づきの点がありましたら、ご一報ください。
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